天台宗 福井山 龍城院塔中寺院
南光坊について
新規納骨堂(普明堂:ふみょうどう)が完成致しました。
世界的な物価高や建材不足により当初の竣工時期より遅延していましたが、この度運用開始に至りました。
ご希望の方はご連絡ください。
令和4年6月吉日にて上棟式のお勤めを致しました。
令和4年3月吉日にて、地鎮式のお勤めを致しました。
平成28年より進めて参りました南光坊復興事業は
令和3年5月16日に龍城院中興18世晋山式と併せて行いました南光坊落慶式にて無事円成致しました。
檀家または関係各位の皆様にご協力いただきましたこと御礼申し上げます。
南光坊落慶式では岡山教区部内寺院様20余名のご臨席を賜りました。
復興したお堂では、祈願道場として護摩法要を修法致します。
何卒御協力を賜りますようお願い致します。
要項
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篤志記念(複数口特典)例
一口以上 お堂内の扁額に芳名記入
三口以上 記念の祈祷札の授与
七口以上 お堂内に願意と芳名を記入した小観音像の奉納
二十口以上 お堂内格天井へ芳名を記入した当家の家紋を奉納
五十口以上 須弥壇などの仏具をご寄進頂ける方はご相談下さい。
南光坊建設地
福井山龍城院塔中寺院南光坊復興事業についての趣意書
謹啓
ご尊家の皆様におかれましては益々御清祥のことと拝察申し上げます。
平素より、格別のご理解とご支援を賜り厚く御礼を申し上げます。
この度、当院において塔中寺院にあたる南光坊の復興を計画致ました。
(※塔中寺院とは大寺院における小寺院、支院を表します。)
昨今の厳しい経済情勢のもと、誠に恐縮ではございますが、当院護持の趣意に御賛同頂ける方は何卒御協力を賜りますようお願い申し上げます。
昨年、新聞の一面に 「消滅寺院」 という見出しが紙面に取り上げられました。
全国に約七万ケ寺あると言われるお寺の内、現在約一万二千ケ寺のお寺が後継者不足の為、住職不在や、住職一人で複数のお寺を兼務されている現状があり、寺院の数も年々減少しています。
一方、世界が国際化する中で改めて日本人としての歴史、文化的な価値感は見直されています。お正月やお盆、お祭りなどの行事は四季に彩りを添え、七五三や婚礼、葬儀など節目の祭礼は命の有り難さを祈る風習として先租から脈々と受け継がれてきました。日本人の心の拠り所として寺社は後世に残すべき宗教施設とも言われています。
当院に於きましては、子弟のアイデアで節分の豆まきや座禅会など、老若男女の方にお寺にお参りを頂くため色々な行事を行うようになって参りました。
私一人で全ての法務や行事を執り行うことはできませんが、子弟の支えを得て何とか続けさせて頂いております。
このように活気ある流れをより良い方向に繋げる為、この度、当院を支える塔中寺院の建立復興が必要だと考え事業を計画数しました。
福井山龍城院の縁起を振り返りますと平安時代の承和五年(西暦八三八年)に天台宗第三代座主の慈覚大師円仁(宗祖伝教大師最澄の高弟)の開基と伝えられています。
江戸時代までに月光坊、大坊、鏡坊、東光坊、南光坊など福井山塔中十二坊の堂宇が建立されていましたが、寛丈六年(一六六六年)岡山藩主池田光政公による寺社整理によって現在の場所に寺院をまとめられ十二坊は龍城院として中興されました。当地域の菩堤寺として現在は中興十七世の代にあたります。
復興を計画する南光坊跡は寄島町福井北部グラウンド下の境内飛地にあり、昔から良い水が取れる場所として知られています。南光坊という地名が残っている
ことから観音様と縁のある寺院だったと考えられます。南の光とは経典において南方の補陀落浄土におられる観音様を表します。水のように観音様は姿形を変えられ、現世に苦しんでいる人々を救って下さる仏様です。お堂の復興のみならず、今を生きる人の願いや安心を祈ることかできるように護摩祈願や納骨堂の運営など地域の人に貢献できるような寺院にして参りたいと考えております。
最後に私事になりますが、昨年九十二才で亡くなった母の故龍妙康は五十年以上前の昭和三十七年に中興十五世になる先々代の住職(享年四十四才)に先立たれました。住職不在の中、葬儀や法事ができなくなってはいけないと、法類寺院の御協力を頂きながら、昭和四十年に身一つで比叡山に登り僧侶としての修行をされ当院の護特に奔走しました。母や周りの方のお力添えのおかげで、今の代にも繋げることができたように思います。
先祖から伝わる当地域の菩堤寺として五十年、百年と将来に向けより安定した体制で維持運営をしていく為にも、何卒、物心に渡り御厚志頂きますよう宜しくお願い申し上げます。
合掌
平成二十八年 七月 吉日
龍城院 住職 龍 迪信
復興事業実行委員会
総代会
世話人会
事務局 龍 信明