由緒


当山は天台宗福井山寿福寺龍城院と号し、宗祖伝教大師最澄 (七六七〜八二二)の高弟、慈覚大師(円仁)による承和五年(八三八)の開基で建立され、天台宗の道場として法燈を今日に伝えてきました。

その間、幾度かの火災によって焼失したが、元禄二年(一六八九)、宝暦九年(一七五九)に塩飽大工の手により再建築。さらに大正八年(一九一九)に改修されています。

池田光政による寛文六年(一六六六)の寺社整理の際、周囲にあった十二坊中、十一坊が焼き払われ、その全てが本寺に集められ、この地方の霊域に定まりました。

天和元年(一六八一)信亮法師が本堂を現在の地に移し、院号を龍城院として慈覚大師の跡を興し継承しました。この信亮法師が当山中興の第一世です。

さらに宝暦九年(一七五九)、真現法師によって本堂が再建され、現在もその姿を止めています。

その後、弟子の良睿法師の子弟が寺を守り、現在で中興第十八世を数えています。

平成五年(一九九三)当山は庫裡等の大改修によって一段と整備され、伽藍全景は荘厳な佇まいを見せています。

庭園は、阿波徳島の嵯峨派の造庭家与兵衛の手になる造庭石組であり、茶室からの眺望に四季折々の深い風情を添えています。

また、殷々と鳴り響く龍城院の晩鐘は、寄島八景の一つに指定され、前庭の大銀杏と共に檀家の人々をはじめ、

近隣の人々からも親しまれています。

 

寄島町はもとより笠岡市大島などの広範囲に及ぶ由緒深い寺院です。

<龍城院に伝わる市指定文化財>


一、本尊阿弥陀如来立像

木彫三尺八寸。文化文政時代の作。座像が拝むことによって仏と一体になると言われるのに対し、

立像は、積極的に衆生を救済する仏像である。

二、阿弥陀如来座像

木彫二尺五寸江戸時代前期の作。

三、檀像
江戸時代末期の作。白檀の香木に三十三体の観音像が彫刻され、

中央に宗祖伝教大師像、最上段に一光三尊の阿弥陀仏(善光寺様式)が彫刻されている。

 

四、涅槃図
釈迦入滅の図で作者不詳。縦一丈一尺、幅八尺。

裏側に施主名が書かれ、「嘉永六年(一八五三)歳春二月」の記録がある。

五、法華経八巻

佐野紹益筆。巻物八寸五分、白紙に金泥で書かれている。
貞享四年(一六八七)に信秀が納めたとの記録がある。

 

~「法華経八巻」物語

京都の豪商佐野重孝、別名灰屋紹益は、江戸時代初期町衆の典型であった。

彼は本阿弥光益の子として生まれたが、佐野紹由の養子となり、書は光悦に、

歌は松永貞徳に、茶の湯は千道安にといった具合で、諸流に通じた文化人であった。
しかし、紹益の名を有名にしたのは、六条柳町の遊女吉野太夫の身請けであった。
吉野太夫(二代目)は諸芸に秀でた一流の教養人として世に知られ、公家らとの親交
もあった。紹益は彼女を正妻として迎え、養父紹由に勘当される。一代の名妓吉野は
また貞淑なよき妻でもあった。この吉野は紹益と添うことわずか十二年、

三十八歳の短い生涯を閉じた。紹益は愛着の余り妻の茶毘の骨を飲みほしたという。

そんな紹益が、愛妻吉野太夫の冥福を祈って書かれた法華経八巻と伝えられている。